「私とは何か-『個人』から『分人』へ-」という平野啓一郎さんの本を読んだ。
私はこの本を自分の子供にも読める年齢になったら読んでほしい。
なぜなら私が学生の時にこの本を読んでいたらと思ったからだ。
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高校や大学の頃、もう10年は前になる。恥ずかしい話だが自分は「キャラ」というものが欲しかった。
クラスや友人の中のキャラを持っている人物にあこがれた。
例えば「遅刻をしても笑って許されるキャラ」だったり、「授業中ちょっと茶々を入れてもいいキャラ」がうらやましかった。
自分がまじめな方だったということもある。
また漫画や小説を読んで、「ちゃらちゃらしてるけどやるときはやるぜ」みたいなキャラクターがかっこいいなと思っていたということもあったのかもしれない。
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そこでまじめな自分を少し変えてみようとだらけたキャラを作ってみた。
まぁ少し大学を自主休講してみたりというたわいもないことである。
そこで少しさぼり癖がついた。さぼり癖がついた自分がとても嫌で、さぼってしまった日はものすごい自己嫌悪だった。
別に頻繁にさぼるわけでもない。せいぜい月に一回あるかないかである。でもそういった部分が少しでも自分にあるのが嫌だった。
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そして、最近「私とは何か」を読んで、分人という考え方を知った。
あのころの自分に読んでほしいと思った。
分人についての説明を少し抜粋して引用する。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
「私とは何か-『個人』から『分人』へ-」から抜粋
分人は対人関係や環境ごとでの違う自分のこと。職場と家庭での自分は全く同じだと言える人はあまりいないのではないだろうか。
そして著者の平野啓一郎さんはこういっている。
学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習したり、自宅で両親と過ごしたりしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人こそを足場として、生きる道を考えるべきである。
「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。
「私とは何か-『個人』から『分人』へ-」から抜粋
この考え方が過去の自分に知っていて欲しかったものだ。例えば仕事が嫌いでも趣味の時間や家族の時間が少しでも取れれば気分が晴れることも多い。
好きな自分に重心を置けばいい。嫌いな自分がいるとしても、それはその分人だけであってすべてではない。
それが学生のときにわかっていれば少しは楽になっていたのではないかと思う。
今、仕事のときも、家族といる自分も結構好きだ。
ときどきだらだらしても、あまり自己嫌悪はしなくなった。
嫌いな自分を重視する必要はない。好きな自分を生きる努力をした方がよっぽど建設的だとわかったからだ。
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「私とは何か-『個人』から『分人』へ-」
まじめな、完璧主義で自己嫌悪しやすい人にぜひ読んで欲しい。
これから分人について時々書いていこうと思っている。興味ある方はぜひまた訪れてもらえればうれしい。
ちなみにこのブログを書いている自分も割と好きだったりする。